私が"善子"と呼ぶ理由

どうもお久し振りです。最近気持ちを伝えたい欲が高まって3日連続でブログってるゆきです。

 

今回は私の推しの"津島善子"という少女について話をしたいと思います。

突然ですが、皆さんは彼女のことを何と呼びますか? 彼女が望むようにヨハネ? それとも本名である善子? はたまた間を取ってよっちゃん?

色々と呼び方はあると思いますが、私は信念を持って"善子"と呼んでいます。

 

勿論、彼女が"ヨハネ"と呼ばれたがっていることはよく分かっています。

 

だからヨハネよ!

 

という彼女のツッコミは、彼女を演じる小林愛香さんのコール&レスポンスになるほどですから。

 

それでも私は彼女を"善子"と呼び続けます。

 

それは彼女の堕天使を否定しているわけではありません。寧ろ彼女の堕天使なところは大好きです。運が悪いことを神から嫉妬されて堕天させられたと自分を言い聞かせて、自分の運の悪さを受け入れる強さに尊敬しています。決して他者を恨んだり羨んだりするのではなく、それが自分なのだと言い切れるのはそれだけ自分と向き合ってきたからこそだと思うんです。

 

少し自分の話になるのですが、自分は産まれ持ってとある病気を抱えています。まあ隠すことでもないですが、かと言ってわざわざ人に言うことでも無いので一応伏せておきます。(聞きたい人はDMで聞いてくだされば普通に教えます)

今でこそ自分の病気のことを受け入れていますが、昔はやっぱり産まれ持ったものだからしょうがないと思うことが出来なかったのです。なんで自分だけが病気なんだと思いました。こんな病気なんて無ければ良いと何度も泣きました。でも、歳を重ねていくにつれ(と言ってもまだまだ若輩者ですが)、この病気のお陰で学んだことも沢山あるということに気付かされました。自分は色々な人に支えられて生きているということ。命の大切さ。人への感謝の気持ち。

確かに今でも病気が治るなら治って欲しいと思っています。でも、今になってみればこの病気を抱えて産まれて良かったなという気持ちですし、辛いことは一杯あるけれども、この病気も含めて自分なのです。

 

きっと彼女も同じなのではないかと思います。自分の不幸に悩み、悲しみ、苦しんだけれども、堕天使と出逢い、全てを受け入れることが出来たのでは無いでしょうか。そんな堕天使を否定できるわけが無いですし、堕天使を否定することは彼女自身を否定することになりますからね。

 

つまり、私にとって堕天使ヨハネというのはあくまで"津島善子"という人間を形作る要素の1つだと思ってるわけです。

 

 

───という、ここまでがG's善子のお話です。ここから先はアニメ善子のお話をしようと思います。

 

 

アニメでの堕天使ヨハネという存在は、普通が嫌で特別に憧れた彼女が作り出した存在です。自分を受け入れるためではなく、普通な津島善子を殺してみんなに特別な存在だと思わせるための存在です。つまり、元々"津島善子"と"堕天使ヨハネ"は共存できないのです。だから彼女は何度も堕天使ヨハネを捨てようとしていました。

 

でも、"津島善子"も"堕天使ヨハネ"もどっちも"善子"なのだとAqoursのリーダーが言いました。好きなら捨てなくて良いのだと言いました。その結果、本来なら共存できないはずの"津島善子"と"堕天使ヨハネ"がその瞬間、津島善子でもあり、堕天使ヨハネでもある"善子"という存在が産まれました。

 

だからこそ私は彼女のことを"善子"と呼んでいます。

自らを堕天使ヨハネと自称し、自分に降りかかる不幸を受け入れる強さを持った少女に敬意を表して、津島善子も堕天使ヨハネも全てを受け入れた存在として。

 

これが、例え彼女を演じる小林愛香さんがヨハネと呼んでも、彼女自身がヨハネと呼んで欲しいと言ったとしても私が善子と呼び続ける理由です。

 

貴方に貰ったもの

皆さんお久し振りです。自己紹介のバリエーションが欲しいと強く思っているゆきです。

 

今回は私の推しの逢田梨香子さんについて話をしようと思います。

私が彼女を好きになったのはFirstライブの2日目を現地で見てからです。私の席はトロッコがすぐ目の前を通る、所謂神席でした。しかもライブの現地参加は初めてということで、凄く興奮していました。

 

開演前にある注意喚起の映像でのブッブーというSEの後に「ですわああああ!!!」と叫んだり、開演前に流れる曲にブレードを振ってコールをしたりと、現地特有の熱気を全身で漫喫しながら始まったライブ。叫んでは泣いて叫んでは泣いての繰返し(余談ですが、ライブ後は酸欠、全身筋肉痛、手の痙攣等が起きて普通にやばかったです)。

 

そうやって全力で楽しんでいたときに唐突にステージに出現したピアノ。私は1日目の情報をほとんど聞いてなかったので、ピアノが出てきた瞬間軽くパニックを起こしました。『想いよひとつになれ』という曲はこの当時からずっと推し曲だったので、それを逢田さんがピアノで弾く!? 逢田さんってピアノ弾けたんだ。そういう思いでステージを見ていました。

 

そして伊波さんの歌い出しから始まり───急に音楽が止まりました。

 

最初は何かの演出なのかなって呑気なことを考えていたのですが、すぐに逢田さんの元に駆け寄った伊波さん、鈴木さん、諏訪さんを見て、ピアノの前で踞って過呼吸を起こしている逢田さんを見て、これが演出なんかじゃないと気付いたのです。

必死に「大丈夫だから」と逢田さんに声を掛けている3人の姿を見て、私は気付いたら「頑張れー!」と叫んでいました。他にも色んな人が叫んでいたと思います。そして、頑張れという声はやがてりきゃこコールとなり、会場全体が桜ピンクに染まったのです。

 

実際は5分とか10分くらいだったようですが、体感で30分くらいが過ぎた頃逢田さんの過呼吸が止まりました。それを見て伊波さん達が持ち場に戻り、逢田さんが再びピアノと向き合いました。そしてまた曲が始まったのです。

正直失礼な話、もう弾けないのではないかと思っていました。元々凄く緊張していたときに失敗してしまって後がない状態、その上先程まで過呼吸を起こしていたほどに追い詰められていた精神状態なんだから指が震えて上手く弾けないだろうと逢田梨香子さんのことを侮っていました。

でも、逢田梨香子さんは力強く完璧に弾ききったのです。緊張もプレッシャーも全てはね除けて堂々と演奏しました。その姿に私は強く心を撃たれました。決して諦めない勇気、どんな逆境も乗り越える強さに憧れました。

 

それだけでも逢田梨香子さんに惹かれるのに十分だったのに、最後の挨拶で彼女はこう言いました。本当は私がみんなにあげないといけないのに逆に自分がみんなからパワーを貰ってしまったと。プロなのに失敗してごめんなさいと。

 

本当に申し訳なさそうに言う逢田さんに私は胸が苦しくなりました。前述したように、私は逢田さんの決して諦めない姿から沢山のパワーを貰いました。諦めなければやり遂げられるんだということを学びました。このライブを通して沢山の感動を与えられました。それでも彼女は自分が失敗してしまったことを良しとしません。

そのプロ意識の高さ、責任感の強さは最年長としてのものなのか、逢田梨香子としてのものなのかは分かりませんが絶対に妥協をしないその姿に私は心を奪われました。

 

それからはもうズブズブとはまっていきました。逢田さんの笑顔を見るだけで胸が苦しくなり、逢田さんの幸せそうな姿を見るだけで私も幸せな気持ちになります(ガチ恋ではありません)。

 

ありがとうって声届けたくて 弾いてるつもり

 

ちゃんと届いてます。そして、これからも逢田梨香子さんの益々の活躍と幸せを祈っています────。

ライブ企画について思うこと

皆さんお久しぶりです。ゆきと言う者です。

今回は4thライブが近付いているということで徐々に企画され始めたライブ企画について思っていることを話そうと思います。

 

ライブ企画、一部では自己満企画と呼んでいる人もいますが、とはスタッフとは関係のない有志の方がライブをより良くと言ったら語弊がありますが、より素晴らしくなるだろうと考えて企画したものです。

叩いている人も多いですが、自分は企画をしてそれを実際に行動に移す行動力は本当に凄いと思っています。自分はThank you, FRIENDS!! を初めて聴いたときに右側と左側でとか、アリーナとそれ以外でみたいにパート分けをして歌いたいなと思ったのですが、曲をどう分けるか、どうやって分りやすく企画を説明するか、会場で配るリーフレットを作るお金や手間等を考えたときに、先導して企画しようとは思えませんでした。だからこうやって何かをこうやって企画して行動を起こせる方達のことを強く尊敬しています。

 

直近での企画と言えばAqours wave project、ヨハネスイッチ、ヨーソロード、果南レール等々ありますね。ちなみに自分は全てに参加しました。それは別になんか企画されてるみたいだから乗っかっておくかという理由で参加したわけではなく、企画をちゃんと見て考えた上でやりたいと思ったからやったのです。

 

例えばAqours wave project、最初この企画を見たときはあまり肯定的に見ていませんでした。恐らく周りの批判的な意見に流されていたところもあるかもしれません。でも、ライブが近づくにつれ企画が段々具体的になってきた頃にもう一度企画について見ると、やってることはブレードを上げて下ろすだけの簡単な作業で、それが揃えば綺麗な波が見れるだろうということが容易に想像できるような企画であることに気付いたのです。

キャストが踊ってて見れないときにやってどうするとか、何かをこっちがやってるのをキャストが無理に見ようとして何かあったらどうするといった意見も見ました。しかし、特に後者の意見に関してはキャストに無理をさせ過ぎだと言っている人と全く同じことを言っているのでは? と思うのです。あなたは応援している彼女たちをその程度のことで失敗してしまうと思っているのでしょうか? 私はそうは思いません。それに、仮にライブ中は見れなかったとしても後々彼女たちが映像を見たときに私たちの想いが届けば良いと思ったので私は参加しました。

 

次にヨハネスイッチ。これに対する批判的な意見で一番同意できたのが、ヨハネモードの時が黒で善子モードの時が白なんだからこの企画でやっていることは真逆じゃないかという意見です。これに関しては素直に、確かにと思いました。でも、曲の大部分をブレードを振らないのは嫌だし、スイッチのところで何かはしたい、という中での苦肉の策だったのではないかと思います。自分も同じ気持ちだったからこそこの企画に参加しました。

 

他の企画に関しても私は自分なりの考えを持って参加しています。

 

皆さんはちゃんと自分の意見を持って企画と向き合っていますか?

 

最初の方に述べたように、企画をすることって凄く行動力や勇気が必要なんです。手間もお金も掛かるんです。成功する保証だってないのに、キャストに喜んで欲しくて、キャストから沢山の感動を受け取ったからこそキャストに感動を返したくて頑張っているんです。

企画するのは自己満足だと言う人はいますが、ただの自己満足のためだけにこれだけのことを出来る人はいないと思います。自分は福岡のファンミや3rdライブで、会場周辺で必死にリーフレットを配っている姿を沢山見ました。だからこそライブ企画は自己満足なんかじゃないと強く思っています。

 

なので皆さんにも考えて欲しいのです。ただ周りがやってるからやる、やってないからやらないではなく、それだけの熱量を持って企画した彼ら彼女らに敬意を表して、企画を真っ正面から受け止めて欲しいのです。

別に私は企画に絶対に参加しろとは言いません。参加するかしないかは自由ですから。ただ、周りの意見だけを聞いて頭ごなしに批判するのではなく一度ちゃんと見て一考してみてください。企画に参加するかどうかを判断するのはそれからでも遅くないのではないでしょうか?

真夏が背負う悲しい物語

みなさんお久し振りです。最近金欠で1日1食がデフォになりつつあるゆきです。

 

今回はダイヤとルビィのソロ曲である、『真夏は誰のモノ?』について考察していこうと思います。

 

何故書こうと思ったかというと、2ndのBlu-rayを見ていて小宮さんと降旗さんが情熱的な愛の歌で近づいたりしてるのを見たときに、よく考えたらダイヤとルビィって姉妹だよな?姉妹の割にあまりにも情熱的なラブソングすぎないか?(良いぞ、もっとやれ)と思ったからです。

 

わざわざ姉妹で歌うって分かっててこういう歌詞を書いたって言うのは何か意図があるのではないでしょうか?

 

そこで考えたのが、

 

恋というものはなんなのか。それはドキドキしたり、気付いたらいつも考えていたり、早く会いたいと思ったりするようなものだと思います。これって私たちがμ'sやAqoursに抱いている思いと同じだと思いませんか?

 

つまりこの曲での恋というのは、ダイヤとルビィのスクールアイドルへの強い想いを恋という甘い言葉で隠しているのかもしれません。

 

ということを踏まえて歌詞の考察に移ろうと思います。

 

 

🌑旧家に産まれた悲しい姉妹の物語

 

ときめき以上のリズム    今宵 知りたくて
いつもより大胆な言葉を    つぶやいた

 

スクールアイドルのライブを見てときめいてるだけだったけど、見てるだけじゃ無くて自分もスクールアイドルをやりたいと呟いたルビィちゃん。

 

普段なら恥ずかしがり屋だし、家が厳しくてそんなこと言えないけど、思わず想いが口から溢れてしまうぐらいスクールアイドルへの想いが強かったのでしょう。

 

 

自分の気持ちなのに    全然分からなく 

なっちゃいたいな

理性から指令が

届かない

コントロール不可能

 

ダイヤも当然、μ'sを含むスクールアイドルのことが大好きで、でも黒澤家としての想いもルビィより遥かに強いです。

 

だからこそスクールアイドルをやりたいという気持ちと黒澤家の次期跡継ぎとしての気持ちの間で板挟みになってしまっているのだと思います。

 

理性ではスクールアイドルをやるべきでは無いと言われているのに、スクールアイドルへの想いが抑えきれなくなってしまったダイヤはちゃんとまだ高校生なんだなって少し安心します。

 

 

そんな恋を

したいのって声が

届いてしまった?

恥ずかしいって思うけど

 

ダイヤはルビィの漏れ出た言葉を聞き、同じ気持ちだったことが分かります。そして、ルビィに対しても恥ずかしいけれど同じ気持ちなのだと伝えたのです。

 

 

赤い太陽のドレスで踊る
わたしのこと見つめる瞳

 

ちょっと飛んでサビに入ります。

 

赤い太陽のドレスというのは、赤のスポットライトに照らされた衣装のことだと思います。スポットライトを太陽に見立てているのでしょう。

 

そして真っ赤に照らされながら踊っている私(私たち)を見つめているファンたちの瞳。あんな情熱的な躍りなら目を奪われて見つめてしまうのもよく分かります。

 

 

 

目をそらしたい でもそらせない
真夏は誰のモノ?

 

でもこうやって情熱的に踊っているけれど、黒澤家という現実から目をそらしているだけでしかありません。旧家の網元ともなれば、西木野家と同じくアイドルを低俗と考え、娘がそれをすることを好まないかもしれません。(一期の最終話で黒澤母がライブ行ってたけど)

 

そしてタイトルにもなってるこの真夏。果たしてこの真夏は何を表しているのでしょうか。私はダイヤとルビィのことを指しているのだと思います。

 

スポットライトという赤い太陽に照らされながら情熱的に踊るダイヤとルビィ。さらにインフェルノフェニックスという燃えるような赤を想像させる衣装テーマは、2人を真夏と表現するのに相応しいと言えるでしょう。

 

つまり真夏は誰のモノ?というのは、ダイヤとルビィは誰のものなのか。言い換えると、ダイヤとルビィの人生は誰によって決められるのかという意味になります。

 

黒澤家の人間として決められたレールの上を生きるか、自分のやりたいことに素直になって、自分で選んだ道を生きていくのか。これはそういう2人のこれからの将来についての曲でもあります。

 

 

あなたとわたしのモノにしたい 
だってね ココロが止まれない季節に
初めて胸のトビラが開いてしまいそうよ
You knock knock my heart!!

 

今まで親に決められたレールの上を生きてきた2人(主にダイヤ)が初めて自分の意思でやりたいことをしてしまったことで、自分の人生を自分で決めたいと思うようになってしまった。

 

しかし恐らくそれは許されないでしょう。ルビィはもしかしたら、があるかも知れませんが、ダイヤは確実に自由意思なんてものは無いでしょうね……。

 

 

ためらいがちのステップが    熱く変わる頃
いつもならあり得ない 衝動に戸惑うの

 

これはダイヤがスクールアイドルを始めたときのことでしょう。

 

最初は自分で決めたことをする、スクールアイドルという低俗と言われることをする、ということに躊躇っていたが自分の好きには抗えません。

 

 

花火が照らす横顔 きっと
この日がくると 予感してた私

もう戻れない 戻りたくない

 

ですがそんな日は長く続きません。当然の如く反対され、すぐにやめさせられるでしょう。でも一度自分のやりたいことをする、ということを知ってしまった2人がそう簡単に諦めることが出来ないだろうというのは容易に想像が出来ます。

 

 

甘く切ない香りで
不意に泣きたくなる気がしたの

 

甘く切ない香りというのはダイヤとルビィお互いの匂いだと思います。つまり、抱き合いながら涙を堪えているということですね……。想像するだけでしんどい

 

 

近づいたり

離れたりの

 

スクールアイドルを通して姉妹の絆もより一層深まり、同じ目的に向かって努力することで心の距離がさらに近づいたのに、スクールアイドルをやめさせられて心が引き離されてしまった黒澤姉妹。

 

ここにいてよ

ここにいてよ

 

ずっと一緒にいたかった。ずっと一緒にスクールアイドルをしたかったという悲痛な叫びが聴こえてくるような気がします。

 

 

Ah 情熱的に抱きしめて!

 

そして最後のこのフレーズ。

 

今まで踊ったりステップを踏んだりと、外に向けて表現していたものが、抱き締めて内に籠ってしまったということは、やりたいことを全て心の中に抑え込んで決められたレールの上を歩くことを決めたということでもあります。

 

旧家に産まれてしまったが故にやりたいことを抑制され、大人に求められるがままに生きてきた2人の悲しい歌、それがこの曲に込められたもうひとつの意味だと思います。

 

 

🌑最後に

 

まず最初にここまで読んでいただいてありがとうございます。

 

この曲は最初に試聴動画で聴いたときに一番デュオトリオで好きな曲でした。情熱的な歌詞に南国を感じさせる曲調と、歌って聞いて楽しいアップテンポと、寧ろ好きにならない理由が無いと言ってもいいレベルです。

 

今は『夏の終わりの雨音が』と1位争いを自分の中でしています。が、やはり近づいたりするのはオタクを完全に殺しに掛かっていて好きすぎるのでやはり今でも1位はこの曲かもしれません。

 

そんな『真夏は誰のモノ?』という曲ですが、決められたレールの上を歩くことが幸せなのか不幸なのかは分かりません。

 

ただ1つだけ言えることは、ダイヤとルビィにはどんな道を進もうが幸せになって欲しいということです。(他のキャラにも言えることですが)

夏に隠された心の距離のお話

どうも、使い方がよく分からずに適当にブログ書けそうなページを開いていって書いてみたらブログじゃなくて日記になってたゆきです。(未だにブログと日記の違いは分かっていない)

 

今回は「夏の終わりの雨音が」という曲について、歌詞とライブ演出から見ながら語っていこうと思います。

 

私が最初に試聴動画でこの曲を聴いたとき、失礼だとは思うのですが正直少し笑ってしまいました。その前の曲がじもあいだったことから、ギャップも多かったし、静かなイントロが始まったと思ったらいきなり語り出す果南。

 

これまでの3曲と、そしてちかなんのイメージと大きく異なったこの曲は自分自身に大きなインパクトを残したと共に、最初の語りが理由で若干ネタ曲なのではと思ってしまいました。

 

その考えが大きな間違いだったのだと気付かされたのは2ndライブを見たときです。金銭的な問題で現地に行くことは出来ずにLVで両日見たのですが、ネタだと思っていた最初のイントロの語りの部分を歌う(語る?)諏訪さんの表情と声がとても切なそうで、すぐに目と心が惹かれてしまいました。

 

今となっては到底ネタ曲とは言えないこの曲について、冒頭で述べたように歌詞とライブ演出の2つの面から考察していこうと思います。

 

 

🌑夏に隠された想い

 

みなさんは夏と言われて何を思い浮かべますか?恐らく暑い日差しを照らす燦々と煌めく太陽を思い浮かべることかと思います。そんな夏が終わるとはどういうことかというと、それはこの太陽が隠れてしまうことを意味しています。

 

そこでタイトルにある『雨』が重要になってくるのです。雨が降るということは空が曇っているということで(天気雨は知らない)、太陽を隠す雨空というのが夏が終わったことを表しています。

 

しかし私は、夏にはもうひとつ別の意味があると思っています。それは、大切な人と過ごす時間の比喩としての夏だということです。

 

では、そういう前提で早速歌詞を読み解いて行こうと思います。

 

 

 

いつだってあなたは身近だった

わざわざ気持ちを確かめるってことも

必要じゃなくて

 

色でお察しの通り果南パートの歌詞なのですが、ずっと身近にいるから気持ちを確認しなくても分かってるつもりだったという、金髪の似合う理事長との仲違いのシーンを思い出しますね。

 

自然に仲良くなれたから

安心してたのかもしれないね

どうして 波に問いかけるけど

 

今度は千歌のパート。千歌と曜が仲良くなるシーンはアニメでは描かれていませんが、幼馴染なのできっといつの間にか仲良くなっていたのでしょう。そして果南と同じように相手の気持ちを分かった気になって安心していた千歌の心情が描かれています。

 

ここのそれぞれのパートは幼馴染、言い換えると大切な人の気持ちを何の根拠もなく分かっているつもりでいた2人のことを歌っています。

 

そしてライブの話になるのですが、ここのパートというか半分くらいは諏訪さんがセンターステージで踊り、伊波さんがメインステージ上で踊るという演出になっています。

 

この諏訪さんと伊波さんの距離が、そのまま大切な人の気持ちを分かっているつもりでいた2人と、大切な人との間の心の距離を表しているのだと思います。

 

大切な人からは、自分のことを分かってくれないと思われていたのではないでしょうか? そうやって、少しずつ大切な人との間に溝が出来ていったのかもしれません。

 

 

夏の始まりが 連れてきた想い

夏が終わるとき 消えちゃうものだったなんて知らなくて

 

大切な人との出逢いによって生まれた様々な想いも、離れてしまえば少しずつ想いは薄れ、大切だったという想いすら忘れてしまうという悲しみが表現されているのだと思います。

 

 

そしてサビに入ります。

 

海辺の空が光って 突然 雲が流れ   大粒の雨 私のなかの涙みたい

こんなに楽しい夏が   ずっと続いてくって信じてたよ

But now・・・ September Rain   But now・・・ September Rain

 

ずっと一緒にいると思っていた大切な人との突然の別れに戸惑い悲しむ2人。聞かなくても大切な人の気持ちを分かっているつもりだったからこそ想像もしていなかったことでしょう。

 

また、ここでの雨は夏を終わらせるものとしての意味と、映画とかで悲しいシーンで雨を降らせているのと同じように、2人が抱える悲しみの2つを意味しています。

 

つまり"September Rain"は夏が終わったこと、つまり大切な人との別れへの悲しみを表現しているということになります。

 

 

いつかは記憶も薄れちゃって

なんども季節が変われば埋もれてく

そして笑えるのかな

 

そして未だに悲しみを乗り越えられない2人は、何度も夏を繰り返せばこの悲しみを忘れて笑えるようになるのだろうかと歌っていますが、夏を繰り返すということはそれだけの別れも繰り返すということになるということに気付いていないのはやはり2人がまだ高校生だからなのでしょうね。

 

 

誰もいない ひとりぼっち

 

これを踏まえてこの歌詞を読むとありえないぐらいしんどいですね。大切な人と離れてしまって、ひとりぼっちになってしまった2人。

 

ただ、実際に本当にひとりぼっちなわけではありません。大切な人とは離れても友達はいるでしょう。ライブでの同じメインステージにいる伊波さんと諏訪さんの間に距離があることはこれを意味しています。

 

大切な人ほど近しい距離の相手では無いけれど……、という心の距離感がそのままメインステージでの2人の距離ですね。

 

しかし、それでもひとりぼっちだと感じてしまうぐらいには大切だった人との別れ。想像するだけでとてもつらい気持ちになります。

 

 

 

思い出なんていらないの   こころが苦しくなるだけだと

No more! September Rain   No more! September Rain

 

忘れてしまいたいのに大切な思い出たちが邪魔をしてずっと心を締め付け続ける、という苦しみを味わう2人が"No more"と悲痛な叫びをあげている2番のサビ。

 

自分は別れを苦しいと思うほどに大切だと思う人と別れるという経験は無いので、この2人の気持ちを完全に理解することは出来ませんが、想像するだけでも涙が溢れ、とてもじゃないが笑うなんてことは出来ないでしょう。

 

 

そしてまたライブの話に移りますが、この曲というのは2ndでも言っていたようにダンスナンバーの曲です。しかし「スリリング・ワンウェイ」のような激しさではなく、手元の細かい振付けなどが印象に残る、静かな激しさと言えるダンスでした。

 

このことは、心という小さなものが大きく揺り動かされていることを表現しているのではないでしょうか? 小ささを細かい振付けで表し、激しさで心が揺さぶられる様子を……みたいに。

 

 

さて、最後は一気に台詞を読み解いていきたいと思います。

 

「何か始まるってことは 終わりにつながるだなんて

考えてもみなかった いや 考えたくなかったんだ・・・」

 

この台詞、この曲になぞらえて言うなら、大切な人との別れなんて考えたことも無かった。という解釈になりますが、敢えて夏という言葉ではなく何かという言葉を使っていることに意味があるように感じます。

 

つまり、急に語り出した謎の台詞(勝手に思っていただけ)には3つの意味が含まれているということです。

 

1つ目は季節的な夏が始まり、こんな楽しい時間が終わることなんて考えたくなかったという意味。2つ目は先程述べた大切な人との別れなんて考えたことも無かったという意味。そして3つ目はAqoursとの別れを惜しむ意味です。

 

始まればいずれ終わる、時間は有限である、ということは何事にも当てはまりますが、ことスクールアイドルにはより強く当てはまると思います。限られた時間の中で精一杯輝くから最高の輝きを発揮できる。これはμ'sが示してくれたことでもあります。

 

もしかしたらいずれ終わりが来てしまうということを考えたくないから、Aqoursは『イマ』を歌っているのかもしれませんね。

 

 

「わかってる、二度とない夏だったってこと

次に来る夏は 違う夏なんだ」

 

閑話休題。今後沢山の人と出逢うだろうけれど、もう一緒に過ごしたあの人と同じ時間を過ごすことは出来ないということが分かるからこそ苦しいし悲しいのだと思います。

 

人と人との出逢いは一期一会。出逢いに感謝し、縁を大切にして過ごしたいですね。

 

 

「日焼けの跡が薄れる頃には きっとね、大丈夫!

でも 今はまだ 背中もこころもひりひりしてるみたいだよ」

 

日焼けというのは恐らく思い出の比喩という意味もあるのでしょう。燦々と煌めく太陽につけられる痕、というのは大切な人から胸に刻まれたものという風に捉えることも出来ますから。

 

大切な人との思い出が薄れればきっとまた笑えるようになるだろうけど、でも今はまだ思い出に胸が締め付けられているという、悲しみから立ち直れていない様子が歌われています。

 

 

「この雨が止む頃 私の涙も乾くってことにしておくよ

さあ、上を向いて 明日のことを考えようか!」

 

沢山悲しんで、悲しみ尽くしたら前を向いて頑張ろうというポジティブに終わる果南の台詞ですが、これが言えるようになるまでにどれだけ悩み苦しみ悲しんできたのでしょうか。彼女の強さは見習いたいところです。

 

 

「楽しかったね、夏・・・」

 

はい涙腺崩壊。この曲の全てが詰め込まれたこの台詞に色々口を出すのは野暮だと思うので何も言いません。というより何も言えません。

 

 

 

🌑まとめ

 

まずはここまで読んでいただきありがとうございます。そしてどうだったでしょうか。

 

正直自分は最初にこの曲を聴いたとき、こんなこと思いもしていませんでした。何回聴いても千歌と果南が夏休み最終日に宿題が終わらなくて、「楽しかったね、夏・・・」と現実逃避してるシーンしか思い浮かびませんでした。

 

でも、何度も言っていますが2ndを見て180°変わりました。そういう意味でもラブライブは2次元と3次元が融合した素晴らしいコンテンツだと思います。

 

 

ここからは余談なのですが、私は「地元愛♡満タン☆サマーライフ」という曲のライブの演出がとても好きなんです。

 

真逆のところからトロッコで出てきて少しずつ近付いていき、最終的には一緒になってキャッキャウフフをするという演出が、善子ヨハネ風に言うとリア充、非リア充という真逆の2人が少しずつ仲良くなっていって夏休みずっと遊ぶようになるぐらい仲良くなったことを表現しているようで好きという余談でした。