"善子"と善子(ヨハネ)

どうも、すぐ見たものに感化されるゆきです。

短めの文章だけど、Twitterに書くには長い気がするので記事にしてみました。

 

今回はアニメ善子とG's善子の違い───の中でも、どうしてアニメの善子は一度堕天使を捨てようとしたのに、G'sの善子は堕天使を捨てようとしなかったのかについて考えてみました。

 

善子が堕天使を捨てようとするかしないか、というのは高校への入学が切っ掛けとなっています。つまり、アニメの津島善子は高校に入学する前の段階から堕天使を捨てることを決めていたわけですね。何が言いたいかというと、津島善子が堕天使を捨てようと決意することにAqoursというグループは一切関係無いということです。

 

では、Aqours結成前の段階のアニメ善子とG's善子の違いとは一体何なのでしょうか? 細かいところは多々あると思いますが、一番大きな違いは幼少時の国木田花丸との出逢いがあるかどうかだと思います。

 

ただ、前述した通り今回の話はAqours結成前の話なので、彼女が高校で国木田花丸と再会するかどうかは関係ありません。大事なのは津島善子の"特異性"を理解してくれる人がいたかどうかです。

幼少時、アニメ善子は自分を天使だと自称することを受け入れられました。G's善子は悪魔と呼ばれて石を投げられました。

その結果、アニメ善子は小学校に上がって自分の特異性が受け入れられないものなのだと気付きました。G's善子はいつものことだと受け入れました。

 

そして、

 

G's善子は、自分の特異性は人から受け入れられないものだと理解した上でずっと生きてきました。誰からも受け入れられたことが無いから周りから奇異な目で見られてもそれが当たり前。その特異性も含めて自分なのだと考えているからこそ、どう思われても堕天使を捨てるという思考など一切ありませんでした。

アニメ善子は一度特異性を受け入れられました。しかし、他人から特異性を理解してもらえるという思いは、小学校に入学して幻想だと思い知らされたのです。つまり、理解してくれる人は0では無いけれど、ほとんどの人は理解してくれないのだということに気付かされました。だからこそほとんどの人から理解してもらえない堕天使は捨てようと決意したのです。

 

理解されたことが無いから理解されないことに何も感じないG's善子と、理解されたことがあるから理解されないことを辛いことだと感じるアニメ善子。この違いが堕天使を捨てようとするかどうかの決断に違いが出た理由なのではないかなと思います。

 

 

理解者が現れた人生と現れなかった人生。果たしてどっちの人生の方が良かったのかは分かりませんが、どちらの人生も最終的にはAqoursという最大の理解者と出逢えるのは、運命のような見えない力が働いているのかもと雑にまとめて終わろうと思います。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。